バルセロナのテロの経過と所感 | 日本で活動中のサッカー監督のブログ

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バルセロナで修行してきましたが、2017年より日本で活動しております。

先日のテロから時間も経って自分自身も落ち着いてきたので経過を報告いたします。

 

惨劇の現場は自宅から10分ほどしか離れていない場所でした。

そのとき(17:30頃)の自分は20時にサンツ(カタルーニャ1部)の練習試合をみるために早めに自宅に戻って一休みしていました。


当日サッカーの練習試合がなく、少し買い物に行こうと思ってランブラス通りを歩いたら現場に遭遇していたところでした。

速報で犯人二人のうち一人は逃走中、もう一人は現場近くのバルに立てこもっているという情報が入ってきました。安全を考えるのなら自宅待機だったろうと思いますが、予定通りサッカーの試合を見に行きました。

テロで行動が阻まれることに我慢がならなかったのだと思います。

自宅を出ると安全のため地下鉄駅は閉鎖され、バスも停留所に停まること無く走り去り、人があふれていました。

その中で自分は公共自転車を使ってサッカーグラウンドまで移動しました。
街を走りながら道行く人が例外なく事件の経過を知るべく携帯電話を耳にあてていたのが印象的でした。

グラウンドに到着すると周りの人たちが凄惨な現場映像をSNSを介してみていてショックを受けていました。自分はあえてそのような凄惨な場面をみないようにしました。以前、東日本大震災で地元が津波にのまれる映像を繰り返しみて精神的なバランスを崩したことがあったので。

結局、実行グループは殲滅させられましたが、バルセロナの友人たちの反応は様々でした。「実行犯を許すことは絶対にできない」「死を以て償うべきだ」という意見もあった反面、「一般の普通の未成年が洗脳されテロリストになるまで何があったのか?」という意見も。

今回のテロに対して「連帯(solidaria)」という言葉が各所で連呼されました。

ここでいう「連帯」とは全市民が一致団結してテロに立ち向かうという意味もありますが各民族、各宗教、各人種の違いを受け入れた上で市民同士の分裂を防ぐという意味の方が強いと思います。


バルセロナはそもそも中世から現在に至るまで港町であり移民からなる商業の街でした。

もちろん市内の地域にもよりますが少なくても昨シーズン私が指揮をとっていたU9チームの選手12人のうち10人は外国人か外国をルーツとする子供でした。

 

欧州で移民政策は失敗しているという方もいますが、少なくてもバルセロナは移民政策で成功してきた街です。

確かに現在は観光客の急激な増加によって市民生活との衝突が問題になっていますが、これも乗り越えていけると期待しています。

 

先週もNo tinc por(「カタルーニャ語で私は恐れない」という意味)
というキャッチフレーズで大々的に市民デモが行われました。
恐れが疑心暗鬼を生み、社会の分裂と崩壊を生むということをバルセロナの人々は歴史であるいは肌感覚でわかっています。


↓カタルーニャ広場で犠牲となった方々のために捧げられた花々


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